『奥 の 細 道』




★ 下線の引いて、<>内にカタカナを記したものは歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直したものです。
★ オレンジ色でリンクしてある語句は、単語説明がでます。



【本文】

 三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ<ズ>、高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐつてこの城に功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青み
たり」と笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落としはべり

  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房見ゆる白毛かな   曾良

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代経堂の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひ<イ>て風雨を凌ぐ。しばらく千歳の記念とはなれり。

  五月雨の降りのこして光堂



【現代語訳】

 藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華も一睡の夢のようなものであって、今ははかなく消え去り、昔の表門の跡は一里ほど手前にある。秀衡の館の跡は田や野山になってしまい、金鶏山だけが、昔のまま姿をとどめている。何よりも第一に高館に登ると、北上川が眼下を流れているが、この川は南部地方から流れてくる大河である。衣川は和泉が城を回って流れ、この高館の下で北上川に合流している。泰衡の旧跡は、衣が関を間に置いた向こうに、南部地方からの出入り口を押さえ、蝦夷の侵入を防いでいるように見える。それはそうとして、源義経が忠義な臣下をえりすぐってこの高館の城にたてこもり、功名を競って奮戦したが、その功名も一時の夢を消え去り、その跡は今ぼうぼうたる草むらとなってしまっている。「国は破れ亡びても、山河だけは昔に変わらず残っている。城は荒廃しているが、春が訪れた今、草木だけは昔のとおりに青々していることよ」と、杜甫の詩を思い出して口ずさみ、笠を敷いて腰を下ろし、いつまでも懐旧の涙を流したことである。

今こうして高館にたって見ると、あたりにはただ夏草が生い茂っているばかりであるよ。ここは昔、義経以下の勇士たちが功名を夢見て奮戦した所であるが、その功名おむなしく一場の夢と消え去り、今はすべて草ぼうぼうたる廃墟と化している。この夏草もやがて枯れ果てるのであろうが、そこに人の世の興亡の姿を見る思いがする。

高館の廃墟に真っ白に咲いている卯の花を見ていると、白髪を振り乱して奮戦している兼房の悲壮な姿が、卯の花の中にありありと浮かんで来ることだ。

 前々から話に聞いて驚嘆していた経堂・光堂の二堂が開帳していた。 経堂は清衡・基衡・秀衡三代の将軍たちの像を残しており、光堂にはこの三代の人々の棺を納め、ほかに、弥陀・観音・勢至の三尊の仏像を安置している。放置しておけば、華麗な装飾の七宝も散り失せ、珠玉をちりばめた扉も長年の風に痛み、金箔を置いた柱も霜や雪のために朽ちて、もう少しのところでみなくずれすたれ、むなしい廃墟の草むらとなってしまうはずのところを、四方を新しく囲んで、上には屋根に覆いをして風雨をたえしのぎ、こうして、はかない現世でしばらくの間は、千年の昔をしのぶ記念碑となって残っているのである。

五月雨は長く降り続き、すべての物を朽ちさせてしまうが、毎年降り続けて来たこの五月雨も、この光堂だけには遠慮して降らなかったからであろうかなぁ、光堂は昔のままの姿を今に伝えていることである。