<巻名>
手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草(光源氏)
の歌によっている。

<本文>
わらはやみにわづらひ給ひて、よろづにまじなひ加持などまゐらせ給へど、しるしなくて、あまたたび
おこり給ひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人侍る。こぞの夏も
世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまた侍りき。ししこらかしつる時は、
うたて侍るを、とくこそこころみさせ給はめ」など聞ゆれば、召しにつかはしたるに、「老いかがまりて、
むろのとにもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。いとしのびて物せむ」と宣ひて、御ともにむつ
まじき四五人ばかりして、まだあかつきにおはす。
<現代語訳>
虐病(オコリ)におかかりになって、まじないや加持などは何から何までおやらせになったが、効験が
見えず、何度も何度も発病なさるので、ある人が「北山に、何々寺という所に、すぐれた行者がおります。
去年の夏もはやりましたので、みな祈祷の効験がなくて困りましたが、この行者がすぐ治すといった例が
たくさんございました。こじらしましては厄介でございますから、早々におためしあそばしては」など
申し上げるので、呼びにやられたところ、「老衰いたしまして、室外にも出ませぬ」と申したので、
「しかたがない。こっそり出かけよう」と、親しくお召使いの四、五人だけをお供に、まだ、暗い中に
ご出発なさる。
<評>