最近「僕の生きる道」というドラマにはまっている。SMAPの草g剛演じる教師中村が、ガンの告知を受け、若くして余命1年と宣告されるという内容で、告知されてからの人間模様を描いたドラマであるが、非常に深く、そして考えさせられるものだ。もちろん健康、そう信じている自分にとって、余命があとどのくらいであるなどは、全く考えたこともなく、また考えたいとも思っていなかった。しかし、ドラマを見ていると妙にリアルに共感できてしまうところがある。なぜなのだろうか。

 現在20代である僕は、まだまだやりたいこともたくさんあり、仕事も楽しい。余命なんて考えたこともないし、考えたとしてもあと40、50年はあるだろうなどとのんきに考えている。「死」なんてずっと遠くにあるもの、そんなふうに考えている。もちろん僕の周りで、若くして亡くなった人は何人もいる。叔父・叔母はともに40代でこの世を去り、小学校からの友人S君、そして高校時代の後輩N君はともに10代で事故により亡くなっている。その時は悲しいことだったが、やはりどこか自分にとっては他人事のように思うところがあったように今は思う。いつ自分に同じようなことが起きてもおかしくないのに、どうしても自分に重ねて考えることができなかったのだ。しかしこれは、大方の人々にも当てはまることなのではないだろうか。

 ドラマでは、余命1年と分かった主人公中村が、突発的に投げやりになることはあっても、その後新しい自分を発見し、前向きに生きていく姿が描かれている。そこには、「死」に向かって歩んでいるにもかかわらず、何か輝きが感じられる。なぜなら彼は「死」に向かって歩いているのではないからだ。つまり、「今」という貴重な時を過ごしているのだ。何度も繰り返される「今を見失ってはいけない」というセリフが何度もこだましながら、主人公は生きているのである。それも1人ではなく。このドラマでは「死」との関わり合いの中で、人と人との関係も非常に強く表現している。人は誰も1人では生きていけない。様々な人間との関わり合いの中で、生き、成長していくということを強く訴えかけてくる。

 「命」というものは、当たり前だが1つであり、どんなことがあっても2つは手に入らない。そしてその「命」がいつなくなってしまうかは、なくなる直前には分かったとしても、健康なうちには誰にも分からない。だからと言って、それを全く考えずに生きてはいけないような気がする。よく言われていることだが、「死」とは遠くにあるものなのではなく、ともにあるもの。僕たちは「死」とともに生きているのである。だからこそ、今が大切なのであり、言い方は変だが、いつ「死」が訪れても後悔しないように準備しておかなければならないと思う。

 以前ある人と話をする機会があり、僕は人間には無限の力があるというのは間違いであると言ったことがある。その考えは今も同じで、人間には限界が必ずあると思っている。その最たるものが「命」である。人間(動物)には必ず「命」の限界、つまり寿命があり、だからこそ今を大切にできるのではないかと思う。もし永遠の命を手にすることがあったならば、どうして今を一所懸命に生きようとするであろうか。時間が永遠にあるならば、きっと今やろうなどとは考えないと思う。僕たちが様々な物事に挑戦していくのは、「命」の限界があるからだ。しかし、それを忘れてしまっている人が多いように感じる。もちろん未来も大切だが、ドラマのセリフにもあったように「今を見失ってはいけない」と思う。貴重な今という時は2度と来ないのだから……。そう思って生きることによって、「命」の大切さとその喜びをじっくり味わうことができるように思われる。古代ギリシアの哲学者セネカも言っているように、人生は短いのではなく、何かを成し遂げるのに十分な長さがあるのである。

( 2003/3/14 )