ここでは、上代〜近現代までの有名な文学作品(制作者選択)の冒頭文を紹介します。「なぜ冒頭文なの?」という意見もあるかもしれませんが、冒頭文というものはその作品を書いた作者がもっとも力を入れて書いている部分であると思っているので、その作者の書き方(表現力)というものが、一番よく我々に伝わってくるのではないかと思うからです。さぁ〜皆さんも、冒頭文を読んで興味をもったらその作品を読んでみてはいかがでしょうか?


奈良時代 平安時代 鎌倉時代 江戸時代 明治時代 大正時代 昭和時代





【奈良時代】


★『古事記』(712年成立) 誦習・稗田阿礼 採録・太安万侶  ジャンル・神話

 天地(アメツチ)初めて発(ヒラ)けし時、高天原(タカアマノハラ)に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日神(カムムスヒノカミ)。この三柱の神は、みな独神(ヒトリガミ)と成りまして、身を隠したまひき。




【平安時代】


★『古今和歌集』(905年成立) 醍醐天皇勅令 紀貫之ら  ジャンル・勅撰和歌集

 やまとうたは、人の心を種として、万(ヨロヅ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

★『竹取物語』(910年以前成立) 作者・未詳  ジャンル・擬古物語

 今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、万の事に使ひけり。名をばさぬきのみやつことなん言ひける。

★『土佐日記』(935年頃成立) 作者・紀貫之  ジャンル・日記

 男もすなる日記(ニキ)といふものを女もしてみんとてするなり。それの年の、しはすの、二十日あまり一日の日の、戌(ヰヌ)のときに門出す。そのよしいささかにものに書きつく。

★『伊勢物語』(956年以後成立) 作者・未詳  ジャンル・歌物語

 昔、男初冠(ウヒカウブリ)して、平城の京春日の里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。

★『蜻蛉日記』(974年以後成立) 作者・右大将道綱母  ジャンル・日記

 かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。

★『枕草子』(996年頃成立) 作者・清少納言  ジャンル・随筆

春は、曙。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

★『和泉式部日記』(1004年以後成立) 作者・和泉式部  ジャンル・日記

 ゆめよりもはかなき世の中をなげきわびつつあかしくらすほどに、四月十よひにもなりぬれば、木のしたくらがりもてゆく。

★『源氏物語』(1008年頃成立) 作者・紫式部  ジャンル・物語

 いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

★『紫式部日記』(1010年頃成立) 作者・紫式部  ジャンル・日記

 秋のけはひ入り立つままに、土御門殿(ツチミカドデン)のありさま、いはむかたなくをかし。

★『更級日記』(1059年頃成立) 作者・菅原孝標女  ジャンル・日記

 あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間・宵居(ヨイヰ)などに、姉・まま母などやうの人々の、その物語・かの物語・光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。




【鎌倉時代】


★『方丈記』(1212年成立) 作者・鴨長明  ジャンル・随筆

 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。

★『平家物語』(1219年以前成立) 作者・未詳  ジャンル・軍記

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。

★『徒然草』(1330年頃成立) 作者・吉田兼好  ジャンル・随筆

 つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。




【江戸時代】


★『好色一代男』(1682年成立) 作者・井原西鶴  ジャンル・浮世草子

 桜もちるに歎き、月はかぎりありて入佐山。爰(ココ)に但馬の国かねほる里の辺(ホトリ)に、浮世の事を外になして、色道ふたつに寝ても覚ても夢介とかえ名よばれて、名古や三左・加賀の八などと、七つ紋のひしにくみして、身は酒にひたし、一条通り夜更て戻り橋。ある時は若衆出立、姿をかえて墨染の長袖、又はたて髪かつら、化物が通るとは誠にこれぞかし。

★『奥の細道』(1702年成立) 作者・松尾芭蕉  ジャンル・俳諧紀行

 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

★『曽根崎心中』(1703年成立) 作者・近松門左衛門  ジャンル・浄瑠璃

 げにや安楽の世界より 今この娑婆に示現して 我等がための観世音 仰ぐも高し。高き屋に 上りて民の賑ひを 契りおきてし難波津や みつづゝ十とみつの里 札所々々の霊地霊仏。巡れば 罪もなつの雲 あつくろしとして 駕籠をはや おりはのこひ目 三六の 十八、九なつかほり花




【明治時代】
(これ以降は作者でまとめて掲載するので多少作品の成立年代と順番が前後する)


★二葉亭四迷(元治元年[1864]〜明治42年[1909])

▼『浮雲」(明治20年[1887])
 千早振る神無月ももはや跡二日の余波となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸出でて来るのは、孰(イズ)れも顋(オトガイ)を気にし給う方々。

★森鴎外(文久2年[1862]〜大正11年[1922])

▼『舞姫』(明治23年[1890年])
 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈(シネツトウ)の光の晴れがましきも徒なり。

▼『高瀬舟』(大正5年[1916年])

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。

★樋口一葉(明治5年[1872]〜明治29年[1896])

▼『たけくらべ』(明治28年[1895])
 廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(ドブ)に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて……。

▼『にごりえ』(明治28年[1895])

 おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、

★尾崎紅葉(慶応3年[1867]〜明治36年[1903])

▼『金色夜叉』(明治30年[1897])
 未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直ぐに長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂しく往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾(キシリ)は、あるいは忙かりし、

★国木田独歩(明治4年[1871]〜明治41年[1908])

▼『武蔵野』(明治31年[1898])
 「武蔵野の俤(オモカゲ)は今わずかに入間郡の残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。

★泉鏡花(明治6年[1873]〜昭和14年[1939])

▼『高野聖』(明治33年[1900])
 「参謀本部編纂の地図をまた繰り開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、あまりの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣(コロモ)の袖をかかげて、表紙を附けた折り本になっているのを引っ張り出した。

★夏目漱石(慶応3年[1867]〜大正5年[1916])

▼『吾輩は猫である』(明治38年[1905])

 吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

▼『坊ちゃん』(明治39年[1906])

 親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事はある。

▼『草枕』(明治39年[1906])
 山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

▼『こころ』(大正3年[1914])
 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。

★島崎藤村(明治5年[1872]〜昭和18年[1943])

▼『破戒』(明治39年[1906])
 蓮華寺は下宿を兼ねた。瀬川丑松が急に転宿(ヤドガエ)を思い立って、借りることにした部屋というのは、その蔵裏(クリ)つづきにある二階の角のところ。

▼『夜明け前』(昭和4年[1929])

 木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(ソバ)づたいに行く崖の道でり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

★伊藤左千夫(文治元年[1864]〜大正2年[1913])

▼『野菊の墓』(明治39年[1906])
 後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。幼い訳とは思うが何分にも忘れることができない。

★田山花袋(明治4年[1871]〜昭和5年[1930])

▼『蒲団』(明治40年[1907])
 小石川の切支丹坂(キリシタン)から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとしてかれは考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。……」

▼『田舎教師』(明治42年[1909])
 四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(ケダシ)を出した田舎の姐さんがおりおり通った。




【大正時代】


★芥川龍之介(明治25年[1892]〜昭和2年[1927])

▼『羅生門』(大正4年[1915])
 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下にはこの男の外に誰もいない。唯、所々丹塗(ニヌリ)の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀(キリギリス)が一匹とまっている。




【昭和時代】


★谷崎潤一郎(明治19年[1886]〜昭和40年[1965])

▼『刺青』(明治43年[1910])
 それはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(キシ)み合わない時分であった。

▼『細雪』(昭和18年[1943])
 「こいさん、頼むわ。―」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛(ハケ)を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ジュバン)姿の、抜き衣紋(エモン)の顔を他人の顔のように見据えながら……。

★志賀直哉(明治16年[1883]〜昭和46年[1971])

▼『城の崎にて』(大正6年[1917])
 山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。

▼『暗夜行路』(大正10年[1921])
 私が自分の祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月程経って不意に祖父が私の前に現れてきた、その時であった。私の六歳の時であった。

★武者小路実篤(明治18年[1885]〜昭和51年[1976])

▼『友情』(大正8年[1919])
 野島がはじめて杉子に会ったのは帝劇の二階の正面の廊下だった。野島は脚本家をもって私かに任じてはいたが、芝居を見る事は稀だった。

★梶井基次郎(明治34年[1901]〜昭和7年][1932])

▼『檸檬』(大正14年[1925])
 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか― 酒を飲んだあとに宿酔(フツカヨイ)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。

★川端康成(明治32年[1899]〜昭和47年[1972])

▼『伊豆の踊子』(大正15年[1925])
 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。

▼『雪国』(昭和10年[1935])
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向こう側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

★井伏鱒二(明治31年[1898]〜平成5年[1993])

▼『山椒魚』(昭和4年[1929])
 山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外へ出ることができなかつたのである。

▼『黒い雨』(昭和40年[1965])
 この数年来、小畠村の閑間(シズマ)重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。

★太宰治(明治42年[1909]〜昭和23年[1948])

▼『斜陽』(昭和22年[1947])
 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」と幽(カス)かな叫び声をおあげになった。「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。

★三島由紀夫(大正14年[1925]〜昭和45年[1970])

▼『仮面の告白』(昭和24年[1949])
 永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。

▼『金閣寺』(昭和31年[1956])
 幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。私の生まれたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。

★安部公房(大正13年[1924]〜平成5年[1993])

▼『砂の女』(昭和37年[1962])
 八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかり海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。