桐壺巻(全九首)



(1)かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(桐壺更衣)

【単語説明】
・かぎり……ここでは命のかぎりを言う。よって次の「道」とは死の道をさす。
・いか……掛詞。「行か」と「生か」とを掛けていて、やはり生きたいという願望をあらわす。

【通釈】
今はもう私の命もこれまでとなります、そのお別れの死への道が悲しいと思われますにしても、 やはり私が行きたい道は生の道でございます。

【評】
この歌は切迫した更衣の気持がひしひしと伝わってくる歌である。自分の死をあきらめながらもやはり、 「いかまほしきは命なりけり」と叫ぶ更衣の心には、まだ三歳になったばかりの光源氏のことが頭の中に あるのであろう。この歌の直後に「いとかく思ひたまへましかば」という反実仮想表現があり、ここで 更衣が訴えようとしたことに関する解釈は二つに分かれている。一つは宮仕えへの後悔であり、今ひとつ は光源氏の将来についてという解釈である。私としては、生への執着を考えると光源氏の将来が心配で ならないのだと思う。またこの歌に対する桐壺帝の返歌がないことも注目に値する。返歌をすることすらも できない帝の悲嘆ぶりがよく理解できるであろう。ここで無理に返歌をするよりも、このように独詠的に する方がより状況がよう伝わってくる。


(2)宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ(桐壺帝)

【単語説明】
・宮城野……宮城県仙台市東部の海岸平野で歌枕にもなっている。ここでは宮中をさす。
・露……涙のこと。また縁語として「むすぶ」を引き出している。
・むすぶ……@結ぶA縫い合わせるB構えるC約束するD形づくる・生じさせるなどの意があるが、 ここで        はDの意をとる。
・小萩……若宮(光源氏)をさす。

【通釈】
宮中で涙を生じさせるように吹き渡っている風の音を聞くにつけても、小さい萩のように弱々しい若宮の ことが思いやられます。

【評】
最愛の桐壺更衣が病死した後、靫負命婦を遣って更衣の母に贈った歌である。更衣亡き後、せめて更衣の 形見である若宮(光源氏)を引き取りたいと言っているのであろうが、更衣の母にとっては、たいへん酷 である。帝は「とく参りたまへ」とは言っているが、実際はこの歌をみるかぎり、若宮だけを引き取りたい ようである。


(3)鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな(靫負命婦)

【単語説明】
・鈴虫……現在の松虫をさすと言われているが確定的ではない(『源氏物語図典』小学館)。
      またこの語は、「ふる(降る・振る)」と縁語関係にある。
・あかず……@満ち足りない・心残りにAいつまでも飽きないで

【通釈】
鈴虫がありったけの声を振り絞って鳴いているのと同じように、私も泣き尽くしても、この長い夜を いつ果てるともなく流れてくる涙ですこと。

【評】
帝の使いで来た命婦であるが、自分の感情を率直に詠んでいるところに、この悲しみの状況が目に浮かんでくる。 秋の少々肌寒い夜に、鈴虫の鳴き声、普段ならば『枕草子』で「虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。 はたおり。われから。ひをむし。螢。」(四〇段 角川文庫)と述べている通り、趣のある情景であろうが、 ここでは、更衣の里が、いかに悲しみに包まれているかを物語るものとなっている。


(4)いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人(桐壺更衣の母)

【単語説明】
・浅茅生……浅茅の生えている所で、自分の邸の荒廃ぶりを「雲の上人」という語を用いて、宮中を比較 し        ながらあらわしている。
・おきそふ……置いてある上にさらに置き加えること。
・雲の上人……宮中に仕える貴人の総称。ここでは靫負命婦をさす。

【通釈】
ますます激しく虫の鳴いている浅茅の生い茂った我が邸で、私の流した涙の上にさらに涙を添えていく あなたですこと。

【評】
「浅茅生」と「雲の上」という語を用いて、宮中との比較をしながら、自分の邸が更衣亡き今、いかに 寂れているかを訴えている。これは更衣の母が歌の後に「かごとも聞こえつべくなむ」と語っていること からも分かるであろう。さらに「いとどしく」や「しげき」などの語の響きが、これを強調しているように 思える。やはり母にとっては故大納言が「この人の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつられ。我亡く なりぬとて、口惜しう思ひくづほるな」と遺言したとしても、宮仕えに出したのは失敗だったと後悔して いるのであろう。


(5)あらき風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞ静心なき(桐壺更衣の母 2)

【単語説明】
・かげ……ここでの意味は、かばってくれた人、すなわち桐壺更衣をさす。
・枯れし……死を意味する。
・(2)の歌同様、若宮(光源氏)をさす。

【通釈】
荒い風を防ぐように守ってくれた母更衣が亡くなってからは、若宮の身の上が心配で心も落ち着きません。

【評】
親は母親(桐壺更衣)だけでなく父親(桐壺帝)もいるのに、あたかももう若宮の世話をする親が一人も いないかのように歌った歌である。本来なら大変無礼な歌であるのを帝は「乱れがはしきを、心をさめざりけるほどと 御覧じゆるすべし」と大目に見ているが、私は、「心をさめざりける」から桐壺更衣の母がこのような 歌を詠んだのではないと思う。これは更衣の母が帝に向けた「かごと」であると解する。それほどまでに 宮仕えに出したことを後悔しているのであろう。


(6)たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく(桐壺院 2)

【単語説明】
・まぼろし……ここでは幻術士の意。
・もがな……願望「〜があれがなぁ」の意をあらわす終助詞。
・つて……ことづて・人づての意。つまりこの場合は幻術士を介すことを言う。

【通釈】
亡くなった桐壺更衣の魂を探しに行ってくれる幻術士がいてくれたらなぁ。もしいてくれたなら幻術士を 通してでも更衣の魂のある場所を知ることができるのに。

【評】
『源氏物語』という作品は緒論出されているように中国文学を非常に多く引用しているし、その影響を受け ている。その中でも桐壺巻では『長恨歌』の影響が甚だしい。この歌もその一例で、「まぼろし」という語 は、『長恨歌』に出てくる「道士」と等しい。まさに『長恨歌』を念頭に置いた歌なのであろう。このこと は、この歌の直後の描写からも分かる。また近年、桐壺巻には『李夫人』の影響もあるという指摘もされて いるが、いずれにせよ中国文学の影響が桐壺巻に色濃くあるということは間違いない。


(7)雲のうへも涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿(桐壺院 3)

【単語説明】
・雲のうへ……宮中の意。これに対して浅茅生の宿は桐壺更衣の母の家をさす。
・いかで……ここでは反語。

【通釈】
桐壺更衣が亡くなって宮中では涙にくれて見えない秋の月が、更衣の里でどうして澄んで見えるであろうか。 きっと同じように涙のせいで見えないであろう。

【評】
桐壺帝の悲しみが絶頂の時の歌である。食事にも手をつけず、朝の政務もしないといった有様である。これ に対しまわりの者たちは、更衣の生前にも帝の寵愛に「楊貴妃の例」などを引き合いに出して批判的であった のに、死後も「他の朝廷の例」を引き合いに出して、やはり批判的である。また歌の直前に述べられている 弘徽殿女御の非情な振る舞いも目を引くところである。一般的に弘徽殿女御は悪役のように言われ、まさに その通りであると思うが、当時の政治体系から考えると、彼女の怒りは当然のものであって、帝の寵愛が 異常であったように思える。


(8)いときなきはつもとゆひに長き世をちぎる心は結びこめつや(桐壺院 4)

【単語説明】
・いときなし……年少であるの意。
・はつもとゆひ……元服の時、はじめて髪を結うのに用いる紫色の紐。

【通釈】
まだ幼い光源氏が迎えた元服で用いた元結に、あなたは末長い約束を結び入れましたか。

【評】
左大臣と帝との贈答である。左大臣は自分の娘(葵の上)の相手を、東宮(後の朱雀院)の申し入れを 断ってまで、光源氏にしようという気持があったのと同時に、偶然にも元服の際の「引き入れ」をしたことから このような歌を詠まれたのである。桐壺院としては亡き桐壺更衣の形見でもある光源氏の婚姻が、永遠に うまくゆくようにという願いがこめられている。しかし、帝の願望とは裏腹に、二人の関係は破綻して いくのである。


(9)結びつる心も深きもとゆひに濃きむらさきの色しあへずは(左大臣)

【通釈】
結び入れた深い元結ですから、その紐の濃い紫色があせない限り、つまり光源氏の気持ちが冷めなければ 大丈夫でしょう。

【評】
先(8)の帝の歌に対する左大臣の返歌である。光源氏の気持を「濃きむらさきの色」と元結の紐の色に 譬えているところがおもしろい。しかし逆に考えると、二人の婚姻は光源氏の気持次第で、自分の娘 (葵の上)は完璧であるとでも言っているように思える。実際はそうではないのに・・・。