近世文学の名歌名場面


『曽根崎心中』 「死出立」(進藤重之)
※引用は『日本古典文学全集 近松門左衛門集1』(小学館)
 また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。



<本文>

  はつは白無垢、死出立、恋路の闇、黒小袖、上にうち掛け、差足し、二階の口よりさしのぞけば、男は下屋に顔出し、招き、うなづき、指さして、心に物言はすれば、階子のしたに下女寝たり、吊行灯の灯は明し。いかゞはせんと案ぜじが、棕櫚箒に扇を付け、箱階子の二つ目より、煽ぎ消せども、消えかねる、身も手も延し、はたと消えせば、階子よりどうど落ち、行灯消えて暗がりに、下女はうんと寝返りし、二人は胴を震はして、尋ね廻る危さよ、亭主奥にて目を覚し、今のはなんぢや、女子ども有明の灯も消えた、起きてとぼせと起されて、下女は眠そに目をすりく、丸裸にて起き出で、火打箱が見えぬと、探り歩くを、触らじと、あなたこなたへ這ひまつはるゝ玉葛、くるしき闇の、現なや。やうやう二人手を取合ひ、門口までそつと出で、懸金ははづせしが、車戸の音いぶかしく、明けかねし折りから、下女は火打をばたばたと、打つ音に紛らかし、ちやうど打てば、そつと明け、かちかち打てば、そろそろ明け、合せ合せて、身を縮め、袖と袖とをまきの戸や、虎の尾を踏む心地して、二人続いて、つつと出で、顔を見合せ、アヽ嬉しと、死にに行く身を喜びし、あはれさ、つらさ、あさましさ、後に火打の石の火の、命の末こそ短けれ



<現代語訳>

 初は白無垢の死に装束、恋い迷う闇さながらの黒小袖をうえに打ち掛け、忍び足して二階の口からさしのぞくと、男は縁の下に顔を出し 、招きうなづき指さして、無言で心の中を伝えたが、階子の下には下女が寝ているし、吊行灯の灯は明るい。どうしようと考えたが、棕櫚箒に扇をつけ、箱階子の二つ目から、あおぎ消しても消えかねる。身をのばし、手をのばして、はたと消すと、階子からどうと落ち、行灯は消えて暗がりに、下女は「うーん」と寝返りをし、二人は震えながら、互いに尋ねまわる危なさよ。亭主が奥で目をさまし、「今のはなんじゃ。女子ども、有明行灯の灯も消えた。起きておぼせ」と起こされて、下女は眠そうに目をこすりこすり、丸裸で起き出し、火打箱が見えぬと、さぐり歩きまわるのを、触れるまいと、あちらこちらに這いまわる、苦しくも闇の中を無我夢中。ようよう二人は手を取り合い、門口までそっと出て、掛け金ははずしたが、車戸の音が気がかりで、あけかねているおりから、下女が火打をはたはたと打つ、その音に紛らかし、カチッと打てばそっとあけ、カチカチ打てばそろそろあけ、音に合わせて戸を引き合わせ、二人一緒に身をちぢめ、袖と袖とを巻いて、真木の戸から外に、虎の尾を踏むような心地で、二人つづいてつっと出、顔を見合わせ、「アア嬉し」と、死にに行く身を喜んだ、哀れさ辛さあさましさ。あとに打つ火打石の火のように、命の行く末は、まことに短いものであった。