近年、毎年無数の書物が出版されているのとは裏腹にいわゆる「読書離れ」というものが、非常に大きな問題となっている。それには様々な要因が考えられるし、また年齢層によってもその要因は異なってくるだろう。例えば大人(仕事を持っている人)にとっての「読書離れ」は、とにかく忙しすぎて読む時間がないというところが大きな原因であろう。毎日朝から晩まで、時には残業で深夜まで仕事をし、帰宅後はくたくたで本を読む余裕などない。また通勤の電車で読もうと思っても、あの満員電車の中で読むなどとてもとてもできるものではない。それに対し、子どもにとっての「読書離れ」の原因は、それよりももっと面白いものが他にあるということが考えられる。テレビゲームの普及により子どもたちは、それがあたかも義務であるかのように熱中する。また日々学校でそれが全く詰まらない内容であったとしても、強制的に教科書と呼ばれる書物を読まされるという反発心から、本を開くという行為に対し拒否感が生まれているということも考えられるであろう。いずれにしても、各年齢層の、「読書離れ」は歯止めの利かぬ状況になっている。そのような悲しき事実を少しでも打破していきたいと思い、ここに少し読書について僕なりの見解を記していきたいと思う。

 まず読書の楽しみとは何か、という基本的な問題から述べたいと思うが、それは個人個人によって異なるかもしれないが、人間的な幅を広げるというものがあるように思う。一人が勉強や研究で得られる成果というものは、 時間的にも限界がある。どんなに吸収力の良い人でも、あらゆる分野に精通することは不可能であろう。また自分の生きていない時代のことを理解することも無理である。しかし、書物という一つの道具・手段を使えば短時間にあらゆる知識を身につけることができるのである。さらに自分の考え方、つまり思想というものは普遍的ではない。人は他者と関わることで日常を送っていく。自分の思想のみに固執すれば、当然他者との間に摩擦が生じる。そのような場合に、どうすれば他者の思想・考え方を理解できるのか。その答えが書物の中にある。無数の書物には、無数の思想がある。それらに触れることで、あらゆる思想を知ることができ、それが必ずや日常的な場面場面に生きてくるであろう。つまりこれが思いやりという最も人間的なものに繋がってくると思われる。もちろん他にも楽しみはあるだろう。例えば、映画を観るのと同じ感覚で、その世界に浸っていく。主人公に自分を重ねることで、普段の自分ではない自分を発見する。これも大きな楽しみである。このように、ざっと述べただけでも、読書の楽しみは沢山ある。

 書物に触れない人はおそらく、それは単なる紙に打ち込まれた活字程度にしか考えないかもしれない。しかしそれは違う。書物というものは、活字の奥に無限の空間がある。そしてその空間には、宇宙と同じように未知という名の星が無数に点在する。しかしながら、宇宙の星は手に入れられないが、書物の中にある星はたやすく得ることができ、そしてそれら一つ一つが、人間形成に大きな役目を果たすのである。人の一生というものは、古代の哲学者セネカに言わせると十分に長いということになるが、それでも80年程の年月は短く感じる者もいるだろう。大げさに聞こえるかもしれないが、その人生をいかに深く味わうか、その一端を担っているのが読書であるように思われる。人の一生は有限であるが、書物を手にし、その扉を開くことによって知の無限なる世界に浸ってみてはどうだろうか。

( 2003/1/31 )