先日、二度ほどある宗教家と話をする機会を持った。そこでは様々な話題を議論したが、中でも僕は「幸福」ということをキーワードに「平和」とは何かという話に非常に興味があり、彼らのそれに関する考えを聞いてみた。しかしながら、僕の満足するような回答は得られなかった。そこで、僕の考えている「幸福」へ繋がる「平和」について簡単に書いてみようと思う。

@衝撃の事件

 2001年9月11日は誰もが忘れられない1日であろう。そう、アメリカ貿易センタービルへの同時多発テロ。そしてビルの倒壊……。数千人という犠牲者の出た事件は、近年まれに見る極悪非道なものであった。その首謀者と目されるビン・ラディンが、現在どこで何をしているのかは定かではない。少なくともその同志が、いまだに対アメリカの旗を掲げ、その時機を見計らっていることだけは確かであろう。そしてその脅威は、アメリカだけにとどまらず全世界に広がっている。いつ彼らが動き出すのか。さらに彼らの行為に便乗して、いつ他の国・組織が動き出すのか。それを考えるだけでも、身震いを押さえることはできない。まさに第三次世界大戦を予期させる脅威である。もし大戦が起これば、おそらく広島に投下された原爆の何倍もの威力をもった武力兵器が用いられることは明らかである。そうなれば、戦争に勝つ負けるなどというもの以上の代償を払わねばならないであろう。一説によると、現在各国が保有している原爆の威力は、地球に5つ投下すれば地球が滅びるとまで言われている。そうなればまさしく地球の崩壊・滅亡を意味し、それは同時に人類の滅亡を意味することになる。そこまでして、なにゆえに人類は戦争をするのであろうか。

A戦争の原因

 人類は大昔から戦争を繰り返してきたが、現代では、特に中東諸国における戦いが非常に問題になっている。1980年代のイラン・イラク戦争、そして10年ほど前に起きた湾岸戦争は記憶に新しいであろう。そしてこれらの戦争の主な原因は、思想の違い、つまり宗教の違いにある。表面的には領土争いとい面もあったであろうが、たとえば聖地をめぐる争いなど、やはりそのバックボーンには宗教的な意味合いが強かった。そして今回起きたテロ事件も、首謀者であるビン・ラディンが言っていたようにイスラム社会対アメリカという構図があることは明らかである。
 僕は生まれた時からほとんど宗教とは無縁に育ち生活してきたが、それでも宗教が幸福を追求するものであることくらいは理解できる。しかしながら、その幸福を追求する一つの手段が、戦争という人類に最大の不幸をもたらす手段に成り代わってしまっている。このような悲しい事実が、ずっと続いていてきていることに人は何を感じるのであろうか。今後も、このような事態を繰り返すつもりなのであろうか。  あらゆる生物の中で、無意味な殺戮をするのは人類だけである。高等動物などと自負し、我々の母なる自然をも支配しようと奢り高ぶっているわりには、非常にレベルの低いことをしていることに、そろそろ気づき、真なる幸福追求へ向かうべきではないだろうか。

B戦争をなくす2つの方法

 先に戦争の原因が宗教的な相違にあることを述べたが、それでは戦争をなくすための方法は何であろうか。ざっと考えて僕が頭に浮かぶ方法は2つある。1つは全世界で宗教を統一することである。これはおそらくあらゆる宗教(キリスト教・イスラム教など)が目指す最大の目的であろうと思う。本来宗教の大きな目的は布教にある。これをずっと広げていくと全世界へ浸透を意味する。もちろんこれは、単なる人数集めというわけではなく、自分たちの信ずるものが最高のものであるという考えがあるからこそ、多くの人に広めたいというものがあると思うが。そしてもしこの宗教の統一というものが実現し、世界共通宗教が誕生するならば、宗教観の相違などは消滅するであろうからほとんどの戦争は終結するであろう。しかしながらこの考えは、たとえば世界の言語を統一言語にするのと同じように、ほぼ実現することは不可能であろう。それならば今一つの方法は何であろうか。それは抽象的な言い方になるが、宗教間の対話と理解である。人間同士の付き合いで友人が友人でいられるのは、お互いがすべての面において共通の思想を持っているからではない。人は十人十色、様々な考えを持っていて当然である。だから、相手によっては気にくわない部分もあるのが普通だ。それでも友人としてつき合えるのは、相手に対する理解があるからである。そこを相手の個性として認めるからである。それと同じように、宗教と宗教が対話をすることによって、相手に対する理解が生まれれば随分状況は変わるであろう。そして時には、お互いが共有できるようなものがあってもよい。たとえば極端であるが、聖地の共有などができるならば、現在起きている中東の争いなど無くなるであろう。
 あらゆる宗教の最大の欠点は、常に相手を除けようとする排他的姿勢である。そしてこのような姿勢があるからこそ戦争もまた起きるのである。もし対話の実現から、理解へと進んでいくならば、必ずや平和の時代が訪れるであろう。

Cまとめ〜真なる「平和」〜

 「平和」という言葉は非常に良い言葉であると考えがちある。「平和」が訪れることが望ましいと皆が願っている。もちろんこのことに異論は全くないし、僕自身「平和」の到来ほど嬉しいものはない。しかし「平和」という言葉をよく考えてみると、なぜ「平和」という言葉が存在するのかという疑問に直面する。何事もそうであるが、1つの言葉には必ず表と裏がある。それは「平和」という言葉も例外ではない。つまり、なにゆえに「平和」という言葉が存在するのかと言えば、それは裏に「戦争・争い」という言葉が存在するからである。もし仮に、「戦争・争い」という言葉が存在しなければ、「平和」という言葉もまた存在しないのである。これは極論のように感じるかもしれないが、極論でもなんでもなく、それは事実そのものなのである。真の「平和」とは、「戦争・争い」の無くなる時代、つまりそれは、まさに「平和」という言葉が存在しなくなった時代を言うのではないだろうか。
 日々の目まぐるしい変化に富んだこの時代、あやうくその状況に取り残されそうになってしまうこの時代に、真の「平和」が訪れ、皆が安心感を持って生活できる時代が、早くやって来ることを心から願っている。

( 2002/3/13 )