@学校教育に必要なこと

 今月の『文藝春秋』(2002/1)に、「遺書―80人の魂の記録」と題して多くの著名人の遺書を紹介する記事があった。その中に平成6年11月27日に、「いじめ」を苦に自殺した大河内清輝君の遺書が掲載されていた。その最初の部分を引用する。

いつも4人の人(名前が出せれなくてスミマせん。)にお金をとられてしまいました。そして、今日、もっていくお金がどうしてもみつからなかったし、これから生きていても…。だから…。また、みんなといっしょに幸せに、くらしたいです。しくしく。

この後も、大河内君の受けた「いじめ」の実態が生々しく綴られている。これを読んで人は一体何を感じるのだろうか?この問題を「かわいそう」の一言で片づけてしまって良いのだろうか?
 本年度から完全週休2日制が実施されるらしいが、その主な目的は「ゆとりの教育」というものにある。これはおそらく、バブルの崩壊、そして経済不況から、一昔前の学歴社会というものに陰りが見え始めたというところに、この方針は端を発しているのであろう。しかしながら、「ゆとりの教育」とは言っても何が「ゆとり」であるのか、結局は「ゆとり=暇な時間」という意味でしか受け取れないのではないかという疑問は消えない。おそらく今回の課程変更で、生徒の種類は大きく2つに分かれてくるであろう。1つは、この教育方針に不安を抱き塾通いを増やすパターンと、もう1つは、仲間と群れ、ゲームセンターなどでたむろをするパターンである。そしてこのような者たちは、「いじめ」という事態が起きた時、どのような行動をとるだろうか。おそらく「いじめ」をやめさせようなどと思う者はほとんどいないであろう。「いじめ」る側につくか、見て見ないフリをするのである。見て見ないフリというのは、極端に言えば間接的加害者である。自分には関係ないことだと考えるのは大間違い。「いじめ」を受けている人間は、そのような者たちに助けを求める信号を暗黙に発しているのである。結局はそれを無視することになるわけで、それを関係ないこととは言えない。だからこそ、見て見ないフリというもの「いじめ」をする側に相違ないと思うのである。
 はたしてこのような状態になった時、今回の教育方針の変更が正しかったと胸を張って言えるであろうか。答えはNOだ。教育というものが学力だけではないという視点は正しいと思うが、中学生くらいまでの時期は、ちょうど自我の形成期であり、いたって精神的に不安定な時期である。そのような時期は、やはり大人たち(親・教師・地域社会の人々)の手助けが必要な時なのである。それなのに、「ゆとり」の時間を与え、自分たちで好きなことをしなさいというのは少し教育というものから外れているような気がしてならない。週休2日にするのであれば、その1日を強制的にも、たとえばボランティア活動で、老人ホームの手伝いをしたり、地域のゴミ拾いなどをする時間にあてたらどうだろうか。または、地域社会の人を学校に招待して、その講演を聞くなどもいいであろう。つまり道徳教育、さらに言うのであれば「心の教育」に力を注ぐべきではないであろうか。今日本(もしかしたら全世界に言えるかもしれないが)に求められている教育は、まさにこの「心の教育」であると思う。そしてその変革に、今が一番良い時期であるように思う。そしてさらにこの「心の教育」というものが、「いじめ」という極悪非道な行為を減少させる大きな教育ではないかと思う。

A学校以外の教育機関を作る(認める)

 先に学校における「心の教育」について書いたが、もしそれでも「いじめ」がなくならない場合はどうすればよいか。それは学校以外に教育機関、つまり成績・卒業認定を発行できる場を設けることである。現在の状況では、その地域に住むとほとんど学校(小中学校)を選択できる余地はない。だから、どんなにイヤでも、決められた学校に通わなくてはならない。これは、わざわざ「いじめ」の起きる場を提供しているようなものではないだろうか。そんな気がしてならない。
 本来学校というものは、寺子屋からはじまって、もっと私塾的なものがあった。行きたい人だけ学びに行く。そういう形式であったものを、公のものにし、学校へ通うことを強制のものにした。もちろん義務教育というものがいけないと言いたいわけではない。しかしながら、義務教育にしたことで、行きたくない人間も学校へ行かなくてはならないという状況を作り出したことも事実である。だからこそ、勉強以外の楽しみ(「いじめ」もする者にとっては一種の楽しみなのであろう)を求めようとするのである。はっきり言ってしまえば、現在の学校は勉強をする場ではない。ほとんど集団になって、勉強ごっこをしているに過ぎない。だからこそ、このような状況を打破するためにも、別の教育機関を作る必要があるのではないだろうか。そしてそれは現在の学校の形式とは異なった、たとえば集団に馴染めない子どものために個人教育もできるような機関である。しかしながら、資金的に考えてそのような機関を作ることが不可能であるならば、既成の教育機関を文部省が認定することはどうであろうか。つまり塾などを認定することである。そうすれば、今の学校に馴染めない生徒にとっても、自分に合った学校を選択する余地が増えるのではないだろうか。

Bまとめ

 今回、「いじめ」というものをテーマに2点に分けて私の意見を述べたが、もっと他にも多くの考えがあるであろう。そしてできれば国会等でも議論し、このような行為をなくすにはどうしたらよいかを話し合ってもらいたい。そして「いじめ」という極悪な行為が、一刻も早くなくなることを心から祈っている。

( 2002/1/28 )