「なにがしの院の怪―夕顔巻―」中島あや子
『源氏物語講座3』 (勉誠社 H4・5)
一 物の怪の正体(48頁)
夕顔の命を奪った物の怪の正体については古来論議があるが、概ね、妖物説[『無名草子、『源氏心くらべ』、『伊勢源氏十二番女合』、石村貞吉「源氏物語に表れたる物の気に就て」(『国語と国文学』大14・10)、岩城準太郎「黄昏から黎明まで」(『国語と国文学』大14・10)、池田弥三郎『はだか源氏』講談社昭34、玉上琢弥「平安文学の読者層」(『慶応大学国文学論叢』昭34・11)、深澤三千男「源氏物語の構想分析―夕顔怪死事件についての一考察―」(『国語と国文学』昭38・10)、糸井通浩「夕顔の巻はいかに読まれているか」(『国文学解釈と鑑賞』昭55・5)、篠原昭二「廃院の怪」(『講座源氏物語の世界第一集』有斐閣 昭55)など]、六条御息所の生霊説[『花鳥余情』、『弄花抄』、『細流抄』、『萬水一露』、『湖月抄』、島津久基「対訳源氏物語講話 夕顔巻』矢島書房 昭25、三谷栄一「夕顔物語と古伝承」(『講座源氏物語の世界 第一集』有斐閣 昭55)、渡辺泰宏「おのがいとめでたしと見奉るをばたづね思ほさで―その解釈と物の怪の正体―」(『中古文学』平2・12)など]、および二説の交錯・折衷説[萩原広道『源氏物語評釈 夕顔巻』、山口剛「源氏物語研究―夕顔の巻に現はれたるもののけに就て」(『文学思想研究』大14・5、岡一男『源氏物語の基礎的研究』東京堂 昭29、西郷信綱「源氏物語の『もののけ』について」(『中世文学の世界』昭35・3、池田亀鑑『池田亀鑑選集 物語文学T』至文堂 昭44、多屋頼俊『源氏物語の思想』法蔵館 昭27、門前真一『源氏物語新見』門前真一教授還暦記念会 昭40、志村士郎「源氏物語夕顔巻解釈上の一問題」(『言語と文芸』昭34・7、森一郎「源氏物語の方法―回想の話型」(『国語と国文学』昭44・2など]に大別されるようである。(48頁)
物の怪の正体が六条御息所の怨霊であることが明らかである葵、若菜下、柏木の三巻には、当然の如く、廃屋に棲む妖物の出現を予測させるような記述は何一つない。作者の筆の運びを見る限り、夕顔巻の物の怪は廃院の妖物の方向を示しているものと思われる。(50頁)
二 六条御息所と物の怪(50頁)
葵上、紫上、女三宮に取り付いた物の怪は、その発言内容、心情描写によって、六条御息所のそれであることが明記されている。
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ところが、夕顔巻の場合には、夕顔を取り殺す物の怪の心情を物語る問題の発言「おのが、いとめでたしと云々」が、前の三者のように六条御息所であることを明確にするものにはなっていない。加えて、若菜下巻の記述が葵巻のそれをうけ、柏木巻の記述が若菜下のそれをうけて、いずれも物の怪が六条御息所の怨霊であることは分明であるが、夕顔巻の物の怪については、作者がその後一言も触れることがない。夕顔の物の怪が、葵、若菜下、柏木の三巻のそれとは区別されることを示すものといえよう。(52頁)
三 源氏の心の鬼(52頁)
源氏の心情と物の怪の発言は緊密に関わり合っているが、それは、物の怪が六条御息所の生霊であるのではなく、物の怪の発言内容が、六条御息所を顧みず、夕顔に夢中になっている源氏のあるまじき心を責めたもので、それは同時に源氏の心中とも重なり合う。その意味で、という深澤三千男氏の御指摘は当を得ている。
紫式部集に次の和歌がみえる。
絵に、物の怪のつきたる女のみにくきかたかきたる後に、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物
の怪せめたるところを見て、
亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ
物の怪を心の鬼、疑心暗鬼であるとする紫式部は、人の心のあり様を冷静に内観できる人であったことが知られるが、夕顔の場合は、源氏の心の鬼が即物の怪に形象化されるのではなく、物の怪の発言内容として移されているといえよう。(53頁)
四 物の怪出現と源氏(56頁)
葵上を死に至らしめた六条御息所の物の怪は、源氏を厭世観へと誘うが、その底部には藤壷恋情の罪障意識が横たわっているということになろう。(57頁)
物の怪は源氏の心の鬼に呼応して出現し、その結果、源氏に男女の世を厭わしいものと内観させ、勤行、出家をも導くものとして描出されるが、その底部には常に藤壷との罪の意識が重く沈んでいる。(中略)物の怪は、源氏の華やかな女性関係の陰の部分を露にする役割を担っているといえよう。(57頁)
夕顔巻の物の怪の正体は廃院に棲む妖物であろう。少なくとも作者はそのように筆を運んでおり、夕顔の死は、河原院伝説や伊勢物語の芥川の段等にみられるような、廃屋の鬼が女に取り付き、取り殺すという昔物語の話型の中で形象化されたものであろう。またその物の怪は、夕顔巻を含めた物語の中で 源氏の心の鬼と緊密に結びついており、源氏の内観を導き出す重要な意味をもって描出されている。(58頁)