「『源氏物語』の女性造型とゆかり=v(六〇頁) 鈴木一雄
『物語文学を歩く』 (有精堂)
作中人物論の展望
【人物造型】
『源氏物語』の人物造型はすぐれている。『源氏物語』には、構想や場面に、巨細を問わず同類・相似の
繰り返しがまま見受けられるが、登場人物においては、あの五百人に近い多人数であるにもかかわらず、同
一人格の繰り返しはないといえよう。たとえ同一構成・同種構想の繰り返しに近くとも、新しい人間の登場
によって、構想・場面が新しい意義を帯びるのである。『源氏物語』は人間≠徹底的に追いつめ、問い
つめるために書かれたとさえ言えるだろう。人間造型を見定めたいという限りない魅力は、そこから生まれ
る。
2 作中人物の相互関係いおける二傾向─ 対照・並立とゆかり≠フ構成と─
登場人物の相互関係におけるまことに顕著な傾向といえるのは、人物を並べる対照・並立の傾向と、人と
人とをつなぐにゆかり≠もってする傾向とであろう。
【双称法】
対照・並立の人物対位は、双称法≠ニとか二人づれ≠ニか呼ばれて、『源氏物語』の特色ある人物描
法の一つとしてしばしば論じられている。たとえば、光源氏に対する頭中将、夕霧に対する柏木、薫君に対
する匂宮といった主人公たちの配置からだけでも納得がゆくように、『源氏物語』の主人公たちは二人づ
れ≠ナ歩んでゆくのである。
こうした主要人物たちの対照的な描き方は各巻の女性側にもおよんでいる。夕顔と六条御息所(夕顔)、
紫上と葵上(若紫)、紫上と末摘花(末摘花)、藤壺と朧月夜(花宴)、玉鬘と近江君(常夏)などの対照
ははなはだ顕著といえよう。
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作中人物の対立を中心に考えれば、対照・並立の傾向とは、同時に二人を並べて、互いの人間をきわだたせ
るところに特色があることになる。
【ゆかり】
前記の双称法≠ノ対して、人と人とのつなぎ方のうえで、その結びつきの必然性を納得させつつ時間的
に連続をはかってゆく特徴的な構成手法が、ゆかり≠ネのである。『源氏物語』全巻にわたって、主とし
て女主人公側の人と人とのつながりは、ゆかり≠フ糸によっている。光源氏が母桐壺更衣への思慕から藤
壺女御への恋と変わり、藤壺を慕う苦しさはやがて若紫の発見へとつながってゆく。この「紫のゆかり」は
古来有名である。
夕顔に死なれてから十八年後、はからっずも遺児玉鬘を見いだすにいたる「夕顔のつゆのゆかり」も知ら
れている。さらには宇治十帖の女主人公たち、大君・中の君・浮舟三姉妹を結ぶ物語もまた、強いゆかり
の糸に導かれている。一口に言えば「宇治のひとつゆかり」の物語なのである。
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ゆかり≠フ構成手法とは、筋の展開から見れば、物語をはてしなく続けてゆくための目に見えないきずな
であり、隠れた推進力ともいえるものである。
【まとめ】
対照・並立の人物対位を縦のすじ、ゆかり≠フ構成手法を横のすじとして、空間・時間の網の目をつく
ってみると、おおざっぱな言い方になるが、その一つ一つの網の目に位置するのが重要人物ということにな
ろう。
3 ゆかり≠フ語義について(六九頁)
ゆかり≠ニいう語は、『源氏物語』に五二例あらわれてくる。
ゆかり……二八例
御ゆかり……一〇例
人のゆかり……三例
人の御ゆかり……一例
紫のゆかり……三例
草のゆかり……二例
露のゆかり……一例
夕顔のつゆのゆかり……一例
ひとつゆかり……一例
ゆかりむつび……二例
『源氏物語』でも他の作品と同様、多く、縁のあること、身内、肉親の関係、姻戚関係に使用している。
よって、ゆかり≠ニいう語が、人と人との縁、つながりを意味し、身内関係、血縁関係を中心としている
語であることは明らかであろう。
【ゆかり≠ニ近接する語】
ところで人と人との縁、つながりを示すことばはゆかり≠セけではない。ゆかり≠ノ近接する意味を
持ち、『源氏物語』にも普通に用いられていることばを拾えば、「よすが」「よるべ」「ちなみ」「たより」
「かたみ」「えん」「えに」「えにし」「ゆゑ」などをあげることができる。
この中で、語義としてほとんどまったくゆかり≠ニ重なるのは「えん」「えに」「えにし」であるとい
えよう。そして、「えに」「えにし」は「えん」の派生語であるから、ゆかり≠ヘ「えん」と意義が重な
る点が最も問題であろう。
「えん」はもともと仏教語であり、辞典にも「物質的・精神的に、すべて原因を助長して結果を生じさせ
る作用」とあるように、人間関係に限っても、人倫のつづきあいといったきびしい内容と語感とを持ってい
る。
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これに対して、ゆかり≠ヘたとえ同意義であったとしても、その語はきわめてやわらかく、女性に親しい
言葉であったのではないか。そして、伝統的な歌語的、情感的な語感が認められ、人間としての情の通った
語である点で、「えん」とは異なるのではないだろうか。
【まとめ】
用例や近接する語との関係から見て、ゆかり≠ェ、人と人とのつながりを情的にやわらかく包み込んだ
語であり、目に見えぬ糸で結ばれた切っても切れぬ縁を意味し、ゆかり≠フ人はもとの人に対して同等と
はいえぬまでもきわめて接近した価値を有することを指摘する。
4 女性をつなぐゆかり=i八十頁)
『源氏物語』の女主人公たちの登場のしかた、運命のあり方、つまり女性側の筋の運びが、目に見えぬゆ
かり≠フ糸によってつながっていると言えば、当然浮かび上がってくるのが、「紫のゆかり」「夕顔の露の
ゆかり」「宇治のゆかり」ということになる。
一人の女君の存在が次の女君の登場を促し、ひとりの女主人公の運命が、つづく女主人公の運命にひき継
がれる。その女君と女君の間をゆかり≠フ糸でつなぐのである。
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これは、物語文学が『源氏物語』に至ってはじめて採用した女性登場の方法であり、読者の心理的共感を期
待し得る女主人公交替のしかたであり、物語を永遠に向けて、どこまでも伸ばしていく時間性の確保でもあ
る。
【「紫のゆかり」について】
いうまでもなく「紫のゆかり」はいわゆる第一部の主流をなす。「紫のゆかり」という言葉そのものは、
『源氏物語』に三回あらわれる。そしてその三例は、藤壺のゆかり≠ニして発見された紫上をさすか、す
くなくとも藤壺・紫上の線を言う。
ゆかり≠フ構成は、永遠の女性℃v慕を前提とする。永遠の女性≠ヘ、ついに地上の男の手にはと
どかぬ存在である。そして薄雲巻における藤壺の死≠ヘ、いよいよ彼女を永遠化する。ゆかり≠ヘその
地上における身がわり≠ナある。紫上は、理想の人─ 紫の人の身がわりという意味で「紫のゆかり」「紫
の君」といわれるのである。身がわり≠ヘ発見されなければならない。ゆかり≠フ構成は、発見のプ
ロット≠伴う。
【「夕顔の露の御ゆかり」について】
これは「中の品」の女性の物語である。雲の上の物語である紫上系の女性たちとは身分も資格も違う。
永遠の女性∴オいはおかしいかも知れない。しかし物語は、夕顔を一瞬のうちに死≠ノ追いやってゆく。
光源氏は十八年隔てた後までも、
年月隔たりぬれど、あかざりし夕顔をつゆ忘れたまはず、心々なる人の有様ども、見たまひかさぬるに
つけても、あ らましかば、とあはれに口惜しくのみ思しいづ。(玉鬘)
と、同じ心を繰り返す。ここにいたって夕顔が光源氏の心に永遠の女性♂サされてあざやかによみがえっ
ていることを知るのである。夕顔の死≠ニ光源氏の十八年間のこの心、こうした前提があってはじめて
ゆかり≠フ構成が成立する。そして以後、夕顔の遺児玉鬘が、永遠の女性@[顔のゆかり≠ニして登場
するのである。玉鬘の九州脱出の苦難から椿市での右近との出会いまでは発見のプロット≠ニいえるだろ
う。
夕顔と玉鬘は母子の関係であるが、ゆかり≠ニいう視点で見ていくと、ゆかり≠フ存在のほうが立ち
勝る特色を持っている。ゆかり≠フ存在が必ずしも低い価値関係にあるとは限らぬことを、「紫のゆかり」
とは違ったかたちで示すものであろう。
【「宇治のゆかり」について】
「宇治のゆかり」という言葉は『源氏物語』本文にはあらわれていない。しかし、実質的にゆかり≠フ
構成に支えられた物語として宇治十帖を見ることは、「夕顔の露のゆかり」の場合以上にやさしい。『無名
草子』も、宇治十帖、特に前半を「宇治のゆかり」という言葉でとらえている。
薫君は、自分の資格にもっともふさわしい永遠の女性≠大君に見いだす。しかしながら大君は死
のよって永遠の女性≠ニなっただけではなく、中の君をゆかり≠フ女性としてクローズアップする。こ
れは発見のプロット≠ナはないかもしれないが、薫君が、大君を思うあまりに中の君を匂宮に結びつけた
はやまった処置にみずからほぞかみ、
ただ、かの御ゆかりと思ふに、思ひなれがたきぞかし。(宿木)
と告白するだけではなく、以前は、「わざと似たまへりとも覚えざりし」中の君の音声までが、「あやしき
まで、ただそれとのみ」聞こえるようになってしまったのである。薫君は中の君を大君のゆかり≠ニして
再発見している。その後、薫の執心に悩む中の君は浮舟の存在を告げる。まさに大君ゆかり≠ニしてであ
る。
ただし、大君と浮舟を結ぶゆかり≠フ意義は、「紫のゆかり」とも「夕顔の露のゆかり」とも異なるも
のがある。薫君にとって浮舟は、大君の「形代」として意識されている。価値関係は、はっきりと浮舟が一
段低い。
5 ゆかり≠フ構造の地盤(八五頁)
永遠の女性℃v慕は古代物語の主題であった。だが、永遠の女性≠求めて愛の遍歴をする、手のと
どかぬ女性、求め得べくもない人を追うという主題そのものからは、ゆかり≠フ構造はあらわれないはず
である。
理想の女性が二つに分かれ、一方永遠の女性≠ニして、手のとどかぬ、求め得べくもない存在を思慕し
ながら、一方、ままならぬ現実の中に女性の理想性を求め、永遠の女性≠フ身代わりを発見するにいたる
くふうは、やはり『源氏物語』まで待たねばならないのである。二つの女性像を重ねて密着させるのが、
ゆかり≠フ構造である。
【第二の主題】
永遠の女性♀求を主題とする古代物語は、ここにヴァリエーションを生じ、ヴァリエーションは、や
がて第二の主題となる。ゆかり≠強調することは、第二の主題の強調であり、永遠の女性≠ニいう主
題を女性側から把握し直した新しい展開であった。これはいわゆる昔物語と『源氏物語』との間の大きい違
いを示すものではなかろうか。
6 ゆかり≠超える女性(九〇頁)
『源氏物語』の第二部では「ゆかり」という語はあらわれるが、ゆかり≠フ構造は生かされていない。
これまで見た通りゆかり≠フ人とは、永遠の女性℃v慕を慰める形代∞身がわり≠フ女性である。
紫上は、他のゆかり≠フ女性とは異なり、光源氏の妻として幾多の苦難を賢明に切り抜けてきた。明石
君との和睦、明石姫君の引き取りなどはその最たるものである。彼女は、作者によって絶えざる試練を強い
られ、独自の成長を遂げさせられてきた女性といってよいであろう。その最後の大試練が女三の宮の降嫁で
あった。
さだすぎた今、上皇の愛娘の出現に苦しむ紫の上は、しかし、とり乱すことなく、気品をもって正室を迎
え、卑下の生活に滑ってゆく。また女三の宮は、心幼く無心、ゆかり≠ノもなりきれない女性であった。
ここから光源氏の得た物は、紫の上の苦悩だけで、彼女は心労の果て、病に倒れ、一進一退をくりかえした
後、四三歳で逝去することになってしまうのである。
第二部では若菜上巻で紫の上の苦悩を描き、若菜下巻では光源氏の苦悩を描く。以下はその後始末の巻々
と言えるが、ここで大切なことは、ゆかり≠フ女性紫の上が、ついにゆかり≠ニしての存在を脱してい
ることである。ゆかり≠超えた女性として描かれるのである。
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第二部の世界は、これを女性側から見れば、はじめゆかり≠ニして出発した紫の上が、みずからの死
をもって、ゆかり≠超え、永遠の女性≠ノ昇華する物語である。それ故、ゆかり≠フ構造が見られ
ないのは当然のことであった。つまり、第二部においてこそ、古代物語の主題永遠の女性℃v慕は、現実
に生きた女性の主題としてみごとに変容したもの、ヴァリエーションとして生かされたものが、ついに新し
く第二の主題に発展したものといえるのであろう。