『源氏物語』の成立年代については、従来より様々に研究されてきているが、いまだはっきりとしたこと は分かっていない。日記ではないから、日付を記すことがないため、分からないのも当然だが、それでも 多少の情報(『紫式部日記』の記述など)からその成立年代を推測すると主に次の説に分けることができる。★参考文献
@寛弘(1004)の初めに成立し、康和(1099)の頃に世に流布したという説。
A『紫家七論』の中で安藤為章は、長保三(1001)年四月十五日に夫である藤原宣孝と死別した後、 寛弘二、三年頃、宮仕えするまでの三、四年間の寡居生活中に書き、宮仕えまでにはその大半が完成していて、世に広まっていたという説。
B上記二つの説の後、あれだけの大作を三、四年で書き上げることは不可能であるから、宮仕えの後、 数年あるいは十数年もかかって書いたという説。
Cまた内容の面から考えて、『源氏物語』の中には作者の成長があり、それは執筆中に何か重要な事件 なり時期なりを経過していることを意味しているからして、執筆の期間は相当に長いという説。
このような従来の説に対して池田亀鑑氏は、宮仕え中に『源氏物語』という大作を執筆することは不可能 であるとし、その執筆の時期は結婚前の二十歳頃から物語を構想し、夫の死別の後にあらたな熱意をもって 書き続け、二十八歳前後の宮仕え前の七、八年間にこれを完成させたとみている。
また、『源氏物語』の執筆順序も非常に問題が大きい。和辻哲郎氏(「源氏物語について」)や、風巻景 次郎氏(「源氏物語の成立に関する試論」)など、多々新説が発表されたが、中でも武田宗俊氏の説は学会 でも注目を浴びた。武田氏は、「帚木」「空蝉」「夕顔」「末摘花」「蓬生」「関屋」「玉鬘」「初音」「 胡蝶」「螢」「常夏」「篝火」「野分」「行幸」「藤袴」「真木柱」の十六帖を玉鬘系物語と呼び、これが 本巻である紫上系の巻々、つまり「桐壺」「若紫」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「須磨」 「明石」「澪標」「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」「少女」「梅ヶ枝」「藤裏葉」など十七帖のあとに書 かれたといっている。しかしながら、この説の最大の困難は、折角「藤裏葉」まで執筆しておきながら、な ぜひるがえって「帚木」の若き光源氏にかえらなければならなかったかである。
これらの説の他にも、いくつか成立年代もしくは成立順序に関する説は発表されているし、今後も様々に 出されていくと思うが、定説を出すことはおそらく難しいであろう。それは、とにもかくにも『源氏物語』 の作者であろう紫式部の伝記すら、いまだ明確なことが分かっていないからである。
・「源氏物語の成立について」岡一男(『國文學 源氏物語の第一総合探求』学燈社S32/4)
・『源氏物語入門』池田亀鑑(現代教養文庫 S32・8)