「成年式−大国主神」

1998年6月 進藤 重之




一、成年式について

 現代において、私たちは二十歳になると成人式を行う。私も経験したことだが、その式の場では若者たち が主役になり、話をしたり酒を飲んだりなど、まさにパーティーというものだ。そしてこれを通過した者は、 未成年という殻から脱皮し、一人前の大人として社会から承認される。それと同時に、参政権も与えられ、 また社会という大きな組織の中の制約に縛られることにも成る。成年式とはそれほど大きなものなのだ。
 それでは、人の一生においてもっとも大きい通過儀礼の一つとも言える成人式・成年式が、いつの時代、 どの場所においても、このように明るい場であったのだろうか。
 まず『文化人類学事典』(弘文館)を調べてみると、「子供から成人への移行を社会的に認知する儀礼で、 通過儀礼の一種。(中略)子供としての個人は死に、一人前の大人としての生まれ変わるという、死と再生 のモチーフが象徴的に示されることも多い。」と書かれており、また『日本民俗事典』(大塚民俗学会編・ 弘文館)をみると、「通過儀礼のうち、子供の社会から大人のそれへ仲間入りし、社会の公認を得るべき重 要な儀礼。(中略)古くは一定の年齢に達した若者に「穴打ち」などの試練を課し、「死」と「再生」にな ぞらえたことも考えられ、成年式における名替えの習俗はこの観念に由来するとみられる。」と、両事典で 成年式について調べてみた。
 ここで注目されるのは、ふたつの事典に共通に記されていた「死と再生」というものと、『日本民俗事典』 に記されていた「試練」というものであろう。この二語を成年式を考える上でのキーワードと見るならば、 成年式とは、私である子供が試練を与えられるうちに死に、その試練を通過した時、社会的に公認され、公 である大人へと再生する一連の儀礼をいうのだろう。
 このように考えてみると、現代の成人式とはずいぶん違っているようだ。
 それでは、この成年式のモチーフが、どのように日本文学に反映されているのかみてみることにする。こ こでは焦点を『古事記』の大国主神の話に絞って考えてみる。

二、大国主神と成年式

 『古事記』と言う作品は、現存する最古の日本文学であり、その成立は七一二年である。そして、ジャン ル分けをするならば、神話という部に属するわけだが、神話だからといって架空であることは少しも意味し ない。むしろ、その世界というものは、人々の生活と密接に関わり合い、人々の生活が多大に反映されてい るのである。その一つが成年式である。成年式のモチーフが、最も顕著にあらわれているのは大国主神の話 であろう。
 大国主神の話は、まさに成年式のモチーフが、そっくりそのまま反映されているように思う。そこには、 まず六つの試練が描かれている。最初の二つの試練は、八十神の迫害の所で、八上比売が大穴牟遅神(大 国主神)と結婚するといったことに腹を立てた八十神が与えた試練である。

@ 赤猪この山にあり。かれ、われ共に追ひ下さば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、必ず汝を殺さむ。

八十神たちの策略にかかった大穴牟遅神は、一度は死ぬが、「母の乳汁」を塗って再生する。そしてまたし ても八十神の試練がやってくる。

A ここに八十神見てまた欺きて山に率入りて、大樹を切り伏せ、茹矢をその木に打ち立て、その中に入ら しむ  る即ち、その氷目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。

とまたしてもその策略にかかり死んでしまうわけだが、今度も母神に助けられることになる。それから御母 神に、

  汝はここにあらば、つひに八十神のために滅さえなむ。

と言われ、この地を去って後、大屋毘古神に、

  須佐能男命の坐す根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神議りたまひなむ。

と言われて根の堅州国に行くことになる。
 さて、根の国へやって来た大穴牟遅神は、須佐能男命の娘である須勢理毘売と結婚することになるのだが、 ここでもやはり須佐能男命から試練が与えられる。

B (須佐能男命が)「こは葦原色許男命と謂ふぞ」とのりたなひて、すなはち喚び入れて、その蛇の室に 寝しめ  たまひき。

 これに対しては、須勢理毘売から「蛇の比礼」をもらって助かる。それから、

C また来る日の夜は、呉公と蜂との室に入れたまひき。

と試練が与えられるが、ここでも「呉公・蜂の比礼」をもらって試練を乗り越える。そして続いての試練は、

D 鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき。かれ、その野に入りし時、すなはち火もちて その  野を焼き廻らしき。

というもので、今度は絶体絶命かと思われたところを、ねずみに「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言われ、 その通りにすると、穴に落ちて焼けずに助かる。そして矢を持って須佐能男も前にあらわれ、最後の試練を 受けることになる。

E ここにその矢を持ちて奉りし時、家に率て入りて、八田間の大室に喚び入れて、その頭の虱を取らしめ たま  ひき。かれここにその頭を見れば、呉公多にあり。

須佐能男命の頭の虱を取ろうとすると、そこにいるのは何と呉公なのである。これに対し、

  ここにその妻、椋の木の実と赤土とを取りて、その夫に授けき。かれ、その木の実を咋ひ破り、赤土を 含み  て唾き出したまへば、その大神、呉公を咋ひ破り唾き出すと以為ほして、心に愛しく思ひて寝ねたまひ き。

と、見事に須佐能男命をだまして、逃げることに成功した。こうしてすべての試練を乗り越えた大穴牟遅神 は、逃げる途中目を覚ました須佐能男命に、

  その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、   おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本   に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。

と言われる。この言葉は非常に重要で見過ごすわけにはいかない。なぜなら、ここには成年式のモチーフが 一通り完結したことを意味されているからだ。つまり、ここで八十神や須佐能男命に与えられた試練を乗り 越えた大穴牟遅神は、須佐能男命によって公認され、大穴牟遅神としては死に、大国主神として再生するこ とになるのだ。これを一項で述べた成年式の定義に当てはめるならば、「大穴牟遅神=子供」が試練を受け 、「大国主神=大人」として再生し、「須佐能男命=社会」に公認されるということになるのだろう。
 以上、大国主神の神話と成年式について述べてきたが、この他にも『古事記』」の中には、人々の生活と 密接に関わった記事が多々あるので、今後検討したい。