中古文学の名歌名場面


『落窪物語』 巻之二 「典薬助の滑稽な大失敗」 (進藤重之)
※本文は『日本古典文学全集』 (小学館)より引用しました。



『落窪物語』 巻之二 「典薬助の滑稽な大失敗」

<本文>

 北の方、鍵を典薬に取らせて、「人の寝静まりたらん時に入りたまへ」とて、寝たまひぬ。皆人々静まり ぬる折に、典薬、鍵を取りて来て、さしたる戸あく。いかならむと、胸つぶる。錠あけて遣戸あくるに、い とかたければ、立ち居ひろろぐほどに、あこぎ聞きて、少し遠隠れて見たるに、上下さぐれど、さしたるほ どをさぐりあてず。
 「あやしあやし。戸内にさしたるか。翁をかし苦しめたまふにこそありけれ。人も皆許したまへる身なれ ば、え逃れたまはじものを」と言へど、誰かはいらへむ。打ち叩き、押し引けど、内外につめてければ、揺 ぎだにせず。「今や、今や」と、夜ふくるまで板の上にゐて、冬の夜なれば、身もすくむ心地す。そのころ 腹そこなひたるうへに、衣いと薄し。板の冷えのぼりて、腹こぼこぼと鳴れば、翁、「あなさがな。冷えこ そ過ぎにけれ」と言ふに、強いてこぼめきて、ひちひちと聞こゆるは、いかなるにかあらむと疑はし。かい 探りて、「出でやする」とて、尻をかかへて惑ひ出づる心地に、錠をついさして、鍵をば取りて往ぬ。あこ ぎ「鍵やおかずなりぬるよ」と、あいなく憎く思へど、あかずなりぬるを限りなくうれしくて、遣戸のもと に寄りて、「ひりかけして往ぬれば、よもまうで来じ。大殿ごもりね。曹司に帯刀まうで来たれるを、君の 御返事も聞えはべらむ」と言ひかけて、下におりぬ。




<現代語訳>

 北の方は鍵を典薬助に渡して、「人が寝静まったような時分に、おはいりなさい」と言って、おやすみに なった。人々が皆寝静まった時に、典薬助は鍵を持って来て、錠をかけてある戸を開ける。姫君は、どうな ることかとはらはらしている。鍵をはずして引き戸を開けたが、戸がひおく固く閉じてあるので、立ったり 座ったりうろうろしているうちに、阿漕がその物音を聞きつけて、少し遠くから隠れて見ていると、典薬助 は、引き戸の上下を手探りするが、溝にかけたつっかえ探り当てない。
 典薬助は、「これは変だ。これは変だ。部屋の中に何か支ったのかな。この老人をこんなに苦しめなさる んだなあ。邸の人々も皆、姫君との仲をお許しになっているわが身なのですから、決して逃れなさることは できますまいものを」と言うが、いったい誰が答えよう。戸を、がたがたと押したり引いたりするけれども、 戸の内と外の両側に支い物がしてあるので、びくともしない。「今にどうかなるだろう。どうかなるだろう」 と夜が更けるまで、戸口の板の上に座っていると、寒さのひどい冬の夜だから、身もすくむような気持ちが する。その時ちょうど典薬助は腹をこわしていた上に、着物が大層薄い。板敷きの冷え込みが腰から上への ぼってきて、腹がごろごろとなるので典薬助は「ああ困った。ひどく冷え込んでしまったわい」言ううちに、 強く頻りにごろごろとなり、ぴちぴちと聞こえることは、どのような状態なのであろうかとあやしく思われ る。典薬助は手で探って見て「糞がたれていないか」と尻をかかえてあわてて逃げるように出て行く不快の 気持ちの中でも、錠はかけて、鍵を持って立ち去った。阿漕は「鍵を置かずに行ってしまったよ」と不満で 憎たらしく思うけれども、戸が開かなかったのが、この上もなくうれしくて、引き戸の側に寄って、「典薬 助は下痢をしかけて行ってしまいましたから、よもやここへは参りますまい。おやすみなさいませ。部屋に 帯刀が来ておりますので、姫君の少将への御返事を申し上げましょう」と声をかけておいて、自分の部屋に 退いた。