近世文学の名歌名場面


『曽根崎心中』 「心中」(進藤重之)
※引用は『日本古典文学全集 近松門左衛門集1』 (小学館)
 また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。



<本文>

  いつまで言うて詮もなし、はや、はや、殺して殺してと、最期を急げば、心得たりと、脇差するりと抜放し、サア只今ぞ。南無阿弥陀、南無阿弥陀と、言へども、さすがこの年月、いとし、かはいと締めて寝し、肌に刃が当てられうかと、眼も暗み、手も震ひ、弱る心を引直し、取直してもなほ震ひ、突くとはすれど、切先はあなたへはづれ、こなたへそれ。二三度ひらめく剣の刃、あつとばかりに喉笛に、ぐつと通るか、南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀仏と、刳り通し、刳り通す腕先も、弱るを見れば、両手を延べ、断末魔の四苦八苦、あはれと言ふもあ  まりあり、我とても遅れうか、息は一度に引取らんと、剃刀取つて喉に突立て、柄も折れよ、刃も砕けと抉り、くりく目もくるめき、苦しむ息も暁の、知死期につれて絶えはてたり、誰が告ぐるとは、曾根崎の森の下風音に聞え、とり伝え、貴賤群集の回向の種、未来成仏、疑ひなき、恋の、手本となりにけり。



<現代語訳>

「いつまで言うても仕方がない。早う、早う、殺して殺して」と最期を急ぐと、「心得た」と、脇差をするりと抜き放し、「サァただ今じゃぞ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言うけれども、さすがにこの年月の間、いとしい、かわいいと抱きしめて寝た膚に、刃があてられようかと、眼も暗み、手も震え、弱る心をあとへ引き直し、取り直しても、なお震え、突こうとはするが、切っ先はあちらへはずれ、こちらへそれ、二、三度ひらめく剣の刃、「あっ」とのみ言う声に、喉笛にぐっととおったのであろうか、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と腕先も弱っていくが、弱るお初を見ると、両手を伸ばして、いまはの際の四苦八苦、哀れというもの、あまりある悲しさである。「自分とてもおくれようか、息は同時に引き取ろう」と、剃刀をとって喉に突き立て、柄も折れよ、刃も砕けよとえぐりえぐりして、目もくらみ、苦しむ息も、暁の死ぬべき時刻が近づくにつれて絶えはてた。誰が告げるのであろうか、曾根崎の森の下風が音を立てるように評判となり、言い伝えられ、上下を問わず人々の回向の種となり、二人の未来の成仏は疑いない恋の手本となったのであった。