中世文学の名歌名場面


『古本説話集』
 また、括弧内の片仮名はこちらでつけました。



<本文>

 「などか助け給はざらん。高き位を求め、重き宝を求めばこそあらめ、ただ今日食べて、命生くばかりの物を求めて賜べ」と申すほどに、乾の隅の荒れたるに、狼に追はれたる鹿入り来て、倒れて死ぬ。ここにこの法師、「観音の賜びたるなんめり」と、「食ひやせまし」と思へども、「年ごろ仏を頼みて行ふこと、やうやう年積もりにたり。いかでかこれをにはかに食はん。聞けば、生き物みな前の世の父母なり。われ物欲しといひながら、親の肉をほふりて食らはん。物の肉を食ふ人は、仏の種を絶ちて、地獄に入る道なり。よろづの鳥獣も、見ては逃げ走り、怖じ騒ぐ。菩薩も遠ざかり給ふべし」と思へども、この世の人の悲しきことは、後の罪もおぼえず、ただ今生きたるほどの堪へがたさに堪へかねて、刀を抜きて、左右の股の肉を切り取りて、鍋に入れて煮食ひつ。その味はひの甘きこと限りなし。
 さて、物の欲しさも失せぬ。力も付きて人心地おぼゆ。「あさましきわざをもしつるかな」と思ひて、泣く泣くゐたるほどに、人々あまた来る音す。聞けば、「この寺に籠もりたりし聖はいかになり給ひにけん。人通ひたる跡もなし。参り物もあらじ。人気なきは、もし死に給ひにけるか」と、口々に言ふ音す。「この肉を食ひたる跡をいかでひき隠さん」など思へど、すべき方なし。「まだ食ひ残して鍋にあるも見苦し」など思ふほどに、人々入り来ぬ。
 「いかにしてか日ごろおはしつる」など、廻りを見れば、鍋に檜の切れを入れて煮食ひたり。「これは、食ひ物なしといひながら、木をいかなる人か食ふ」と言ひて、いみじくあはれがるに、人々仏を見奉れば、左右の股を新しく彫り取りたり。「これは、この聖の食ひたるなり」とて、「いとあさましきわざし給へる聖かな。同じ木を切り食ふものならば、柱をも割り食ひてんものを。など仏を損なひ給ひけん」と言ふ。驚きて、この聖見奉れば、人々言ふがごとし。「さは、ありつる鹿は仏の験じ給へるにこそありけれ」と思ひて、ありつるやうを人々に語れば、あはれがり悲しみあひたりけるほどに、法師、泣く泣く仏の御前に参りて申す。「もし仏のし給へることならば、もとの様にならせ給ひね」と返す返す申しければ、人々見る前に、もとの様になり満ちにけり。





<現代語訳>

「どうして(観音様は)助けてくださらないのだろう。(私が)高い位(につくこと)を求めたり、立派な宝を求めたりするならばともかく、ただ今日  口に入れて、命が助かる程度の物を探してお与えください。」と申し上げているときに、(この寺の)西北のすみの荒れて破損した所に、狼に追われた鹿  が入って来て、倒れて(しばらくして)死んだ。そこでこの法師は、「観音様がくださったもののようだ」と思って、「食べようか、どうしようか」と思う  が、「長年仏を信じて修行することが、次第に年が重なった。どうしてこの鹿を急に食べようか。聞くところによれば、生物は皆、前世では自分の父母であ  る。私は食い物が今欲しいけれど、(前世の)親の肉を切り裂き食べてよかろうか。生き物の肉を食べる人は、成仏する可能性を絶って、地獄に入るきっか  けとなるのである。(そういう人に対しては)すべての鳥や獣も、見ると逃げて走り、恐れ騒ぐ。仏も(縁なき衆生として)見捨てなさることであろう」と  は思うが、現世の人の悲しいことといったら、来世の罪障となることも考えず、現在生きているときのこらえ難い空腹に堪えれず、刀を抜いて、(鹿の)左  右の股の肉を切り取って、鍋に入れて煮て食べた。その味のおいしさはこのうえもない。
  さて、(食べ飽きて)食欲もなくなった。力について生き返ったような気持になった。「あきれ返ったことをもしてしまったなあ」と(法師は)思って、泣  きながら座っていたときに、人々が大勢来る声がする。聞くと、「この寺に籠もっていた上様はどうおなりになったであろうか。人の来て通った足跡もない。  召し上がり物もあるまい。人の気配がないのは、ひょっとすると亡くなりなさったのだろうか」と、口々に言う声がする。(法師は)「あの肉を食った跡を何  とかして隠そう」などど思うが、どうしたらよいか、その方法もない。「まだ食べ残して鍋に残っているのもみっともない」などど思っているうちに、人々は  入って来た。
  「どのようにして数日を過ごしていらっしゃったのか」などど言って、まわりを見まわすと、鍋に檜の切れ端を入れて煮て食ったあとがある。「これは、食べ  物がないとはいいながら、木を誰が食べようか、(驚いたことだ)」と言って、ひどく同情しているうちに、人々が仏(観音菩薩像)を見申し上げると、左右の  股をなまなましくえぐり取ってある。「これは、この上様が食べたのである」と思って、「実に驚きあきれたことをなさった上人様よ。同じ木を切って食うなら  柱でも割り裂いて食べたらよいのに。どうして仏をこわしなさったのだろうか」と言う。驚いて、この法師が(仏を)見申し上げると、人々が言うとおりであ  る。「それでは、さっきの鹿は仏が霊験によって変化なされたものだったのだなあ」と思って、先ほどの事情を人々に語ると、人々は、身にしみて感動し悲し  く思い合っているうちに、法師が、泣きながら仏の御前に参って申し上げる。「もし(先ほどのことが)仏のなさったことならば、もとのようにおなりになっ  てください」と繰り返し繰り返し申し上げたところ、人々が見ている前で、(仏は)、もとの様子になり整ったのであった。