中世文学の名歌名場面


『伊曾保物語』  「孔雀と鶴のはなし」



<本文>

 さる岡の上に、鶴と孔雀と遊びゐけるが、孔雀、その身の美しきに誇り、鶴に言ひけるは、「世の中に、鳥は多けれども、我が翼に及ぶものあらじ。絵に描く時は、筆にも尽くされじ」などと誇りければ、鶴は、「憎し」と思へども、さあらぬ体にて、「なるほど、空飛ぶ鳥の中にて、御身ほど美しきものはあるまじ。さりながら、欠けたる事二つあり。まづ一つには、御足のきたなきは、錦を着て足に泥を付けたる如く、二つには、鳥といふものは高く飛ぶを第一の徳とす。しかるに、御身は飛ぶといふとも、高く飛ぶこともならず。これを思ふ時は、翼あって翼なきが如し。御身、わづかの得に誇りて、大きなる損のあるをわきまへずや」と恥ぢしむれば、孔雀はすごすごとして立ち去りける。
 そのごとく、我が誉れに誇る時は、人また、その誤りを言ひ出づるものなり。




<現代語訳>

 ある岡の上で、鶴と孔雀とが遊んでいたところ、孔雀が、自分の身の美しさを誇って、鶴に言うには、「世の中に鳥はたくさんいるけれども、私の翼に勝るものはいないであろう。私を絵に描いても、その美しさを描き尽くすことはできまい。」などと誇ったので、鶴は「憎たらしいなぁ」と思ったが、素知らぬ顔で、「本当に、空を飛ぶ鳥の中で、あなたほど美しいものはいないでしょう。しかしながら、あなたには欠点が二つあります。まず一つは、あなたの足の汚さは、錦を身に纏って足に泥を付けているようで、二つには、鳥というものは高く飛ぶことが最も徳なのです。あなたは飛ぶといっても高く飛ぶことはできません。これを考えますと、翼はあってもないのと同じです。あなたはわずかな利点を誇って、大きな欠点があることを分かってはいないではないですか」と恥をかかせたので、孔雀はすごすごと立ち去っていった。
 そのように、自分自身を自慢すると、人はその間違いを言い出すものである。