年 齢
事 項
明治29年
(1896)
0才
8月27日
岩手県稗貫郡花巻町大字里川口第十二地割字川口町二九五番地で、父政次郎、母イチの長男として出生する(実際は母イチの実家である宮沢善治宅で出生)。
当時、家では質屋及び古着商を営んでいた。
明治31年
(1898)
2才
11月5日
妹トシ誕生。
明治32年
(1899)
3才
父政次郎の姉であるヤギが結婚の破綻から戻ってきており、その際賢治に親鸞の『正信偈』や蓮如の『白骨の御文章』を子守歌のように聞かせ、賢治も仏前に正座して暗唱したらしい。
明治36年
(1903)
7才
4月
町立花巻川口尋常小学校(1905年から花城尋常小学校と改称)に入学。
明治37年
(1904)
8才
2月
日露戦争勃発
4月
弟清六誕生。
明治38年
(1905)
9才
4月から担任になった八木英三から『まだ見ぬ親』(エクトル・マロ)などの童話を読み聞かされる。これが賢治の童話の出発点か。
明治39年
(1906)
10才
8月
父政次郎主催の第九回夏期仏教講習会に参加。これが賢治の仏教思想の出発点か。
またこの年、賢治は鉱物・植物採集や昆虫採集に熱中する。
明治42年
(1909)
13才
3月
花城尋常高等小学校尋常科卒業。成績は6年間とも全甲であった。
4月
岩手県立盛岡中学校入学。寄宿舎に入る。
この頃、鉱物採集・星座・登山などに熱中する。またこの時期くらいから短歌の創作を始める。
明治45年
大正元年
(1912)
16才
5月
修学旅行で松島・仙台へ行く。そこで初めて海を見る。
大正2年
(1913)
17才
盛岡中学校4年の3学期、新舎監排撃運動に賢治も加担したとして、退寮を命ぜられ、盛岡市北山の清養院(曹洞宗)へ下宿し、5月には徳玄寺(浄土真宗)へ移った。
大正3年
(1914)
18才
3月
盛岡中学校卒業。成績は88名中60番であった。
4月
肥厚性鼻炎の手術のために盛岡市岩手病院に入院。この時、看護婦に初恋をする。
5月末
退院。この後、鬱々とした日々を送っていたが、島地大等編『漢和対照 妙蓮華経』を読み感動する。
この年第一次世界大戦勃発。
大正4年
(1915)
19才
4月
盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)農学科第二部に首席入学。同時に妹トシは、日本女子大学校家政学部予科へ入学。
大正5年
(1916)
20才
11月25日
「校友会会報」(第三二号)に「健吉」の名前で、「灰色の岩」の短歌二九首を発表。以後同誌への発表が続く。
大正6年
(1917)
21才
同人雑誌「アザリア」を創刊。賢治は「みふゆのひのき」の短歌一二首を発表し、その後も同誌に発表を続けるが、翌年第六号でこの雑誌は終わってしまう。
大正7年
(1918)
22才
3月
盛岡高等農林学校本科を卒業。
4月
研究生として学校に残る。この時、稗貫郡の土性調査・分析を行う。
6月
肋膜炎の診断がくだり、1ヶ月ほど静養する。
夏頃
「蜘蛛となめくぢと狸」や「双子の星」などを弟妹に読んで聞かせ、童話の制作がはじまる。
12月
妹トシの入院のため上京。
大正9年
(1920)
24才
3月
盛岡高等農林学校研究生を終了。その後助教授へという推薦もあったが辞退する。
10月
国柱会に入会。
大正10年
(1921)
25才
1月23日
家族に無断で上京。そのまま国柱会を訪ね、高知尾智輝と会う。それから東大赤門前の文信社の校正係として働く。その頃、高知尾から「法華文学」の創作を勧められ、多くの童話を執筆。
4月
父政次郎が上京。二人で伊勢・奈良・京都を旅する。
8月
妹トシの病気の報を受け花巻へ帰郷。
9月
雑誌「愛国婦人」(九月号)に「あまの川」を発表。その後も同誌に「雪渡り」などを発表した。
12月13日
稗貫農学校(翌年、県立花巻農学校と改称)の教諭となる。
大正11年
(1922)
26才
1月
『春と修羅』の詩編の制作がはじまる。
11月27日
妹トシ死去。これに衝撃を受けた賢治は、「永訣の朝」や「無声慟哭」などの詩群を書く。
大正12年
(1923)
27才
4月8日
「岩手毎日新聞」に「心象スケッチ外輪山」と童話「やまなし」を発表。
4月25日
花巻農学校開校式で、自作の劇「植物医師」「バナナン大将」「飢餓陣営」などを上演。
大正13年
(1924)
28才
4月20日
『春と修羅』一千部を関根書店から自費出版する。
12月1日
『注文の多い料理店』を発行。
大正15年
昭和元年
(1926)
30才
1月
雑誌「月曜」(一月創刊号)に童話『オッペルと象』を発表。
3月31日
花巻農学校の教諭を依願退職。
4月
実家を出て花巻郊外の下根子桜の別邸で独居自炊生活に入る。
8月
羅須地人協会を発足。
12月
上京し、高村光太郎などを訪問する。
昭和3年
(1928)
32才
8月
この頃から高熱などで悩み、自宅で静養。この病臥の中で「症中詩篇」が書かれたらしい。
昭和6年
(1931)
35才
9月19日
上京するが、翌日に発熱。死を覚悟して遺書を書く。そして父に電話連絡。父の命令で花巻に帰り再び病臥の身になる。
11月3日
手帳に「雨ニモマケズ」の詩を書く。
この年、満州事変勃発。
昭和8年
(1933)
37才
8月
「文語詩稿 五〇篇」「文語詩稿 一百篇」を定稿。
9月20日
容体悪化。夜、農民の肥料相談に1時間ほど応じる。
9月21日午後1時半
永眠。
9月23日
宮沢家菩提寺安浄寺で葬儀が行われる。昭和26年7月には身照寺(日蓮宗)で改葬。